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☆どんなんだか飛行機野郎小松へ |
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◆5月2日
ピッツS-2Cを小松航空プラザに運搬するミッションを実行するために平成22年5月2日の早朝に出発した我々は、百里基地そばの故ロック岩崎氏の自宅でピッツの積み込みをした。東関東自動車道茨城空港北ICより北関東自動車道をとおり、東北自動車道栃木都賀JCTを経て佐野藤岡ICで一旦国道50号線に降りて、再び北関東自動車道太田桐生ICから高速道に入る。高崎JCTから関越自動車道にいったん入り、藤岡JCTから上信越自動車道に入る頃には正面に妙義山のギザギザの山並みと大きく白い浅間山がそびえ立つ間を走る。青い空が広がる好天の下で暖かな気流が心地よい風を送る。たいした渋滞もなく順調に走行し甘楽PAにたどり着いた我々は、光子さんに作っていただいた弁当をここで食べる。至福のひとときである。こんなおいしいお弁当を作ってくれた光子さんに大感謝。その後も更埴JCTから白い雪がまだたくさん残る北アルプスの山々を遠くに望みながら順調に進み、妙高山、黒姫山の間を抜ける頃に若干の渋滞につかまる。上越JCTから北陸道に入ると再び順調に流れる。やはり白い雪がまぶしい雄大な立山連峰を左に、時折望む静かな青い日本海を右にそして黄緑色の木々に遅咲きの桜が混ざる緩やかな山々の中を快調に進み、やがて日が西に傾き日本海に飛び込もうかとする頃に小松インターを降りる。気がつくとあたりが薄暗くなり始めた頃に小松航空プラザに到着し、トラックを建物内に止めて吉永館長に簡単に挨拶を済ませ、片山津ICから本日の宿泊地である吉野さんの生家に、トラック運転組の石川と平井を含めて7人で賑やかに向かう。早朝に出発し大きな渋滞もなく順調に進んで来たが、800km以上も走行し福井北ICを降りる頃には夜の8時近くになった。やがて大安禅寺そばの吉野さんの生家に到着。近くの温泉で疲れを癒す。運転手さんお疲れさまでした。
夜は福井の繁華街に繰り出し、福井の海の幸を食べる。へしこというサバを塩漬けにした後にぬか漬けにしたものを大根の薄切りと一緒に食べる。これが絶妙で一同大いに感心する。また、醤油がやや甘くダシの利いた関東の醤油とは違った味ににも驚く。季節的にはちょうど中途半端な時期だったそうですが、何もない野田で生活している我々にとってはたいへんなご馳走でありました。その後、航空グッズがたくさん展示されているバーに向かい、そこで我々を待っていてくれたのは、航空自衛隊で吉野さんの二期先輩で元テストパイロットで空将補で引退された村田和夫さんでした。なんと村田さんはNSSPの後藤顧問と防衛大学校で同期だったそうです。自衛隊時代のいろいろな話を聞きました。T2のテスト飛行中にエンジンが2基とも停止してしまったのを無事に帰還させた話や在職中に自分の部隊に一切の事故を起こさせなかった事など、たいへん興味深く聴かせていただきました。チャック・イエーガーと並んで撮られた写真を見せていただき、その表情に村田さんの誇りや過去の業績のすごさが見えました。
満州で生まれ、戦後日本に戻り、その直後に福井地震に被災された吉野さんやそのご家族はたいへんな苦労をされたことが想像できます。毎冬の豪雪や九頭竜川の決壊など、そんな環境が努力することや忍耐強さを備えた後の吉野ホンダ社長や我らが吉野監事を生み出してきたのでしょうね。
その夜は快適な吉野さんの生家で安眠といきたかったのですが、平井克ちゃんの飛行機の爆音にも負けない轟音のいびきで夜中に何度も目が覚めてしまいました。こうして私も忍耐強い性格になったんですね。平井克ちゃんありがとう。
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◆5月3日
早朝、臨済宗妙心寺派の寺院である大安禅寺に向かう。
大安禅寺は福井藩第4代藩主松平光通が、越前松平家の永代菩提所として万治元年(1658年)に創建された。
※ここで疑問に思ったこと
1. 墓の入口の表には葵の紋、裏には桐の紋がついているのは何故か?
◇調査結果:
福井藩初代藩主結城秀康は徳川家康の次男として生まれたが、幼少より冷遇され、小牧・長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和解するときの条件として、秀康は秀吉のもとへ養子(実際は人質)として差し出された。元服して養父・秀吉と実父・家康の名を一字ずつ取り「羽柴秀康」と名乗った。天正18年(1590年)に下総国結城の大名・結城晴朝の姪と婚姻して結城氏の家督と結城領11万1,000石を継ぎ、「結城秀康」と名乗ることとなる。秀吉死後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの戦いの前哨戦である上杉景勝征伐に参戦する。景勝に呼応する形で石田三成が挙兵すると、家康は小山評定を開いて諸将とともに西に引き返すことを決める。このとき家康によって、本隊は家康自らが率いて東海道から、そして別働隊を秀忠が率いて中山道(東山道)を進軍することが決められ、秀康には家康らが西に引き返す間、上杉景勝を牽制するという留守居の役目が与えられた。「越叟夜話」には、武勇に自信があった秀康が、凡庸と評判される弟の秀忠が大軍を率いて西上する大役を与えられたことに不満を覚え、家康に自らも西に向かう軍勢に加えて欲しいと嘆願するが、本多正信に説得されやむなく残ったという逸話が伝わる。関ヶ原の後、秀康は家康より下総結城10万1,000石から越前北庄67万石に加増移封された(戦後の論功行賞にて、徳川一門を含めた諸侯の中で唯一50万石を超える加封を受けている。ちなみに第二位は関ヶ原の戦場に在陣した異母弟松平忠吉であり、48万石増の尾張清洲52万石に移封されている)。慶長9年(1604年)には松平氏の姓に復することも赦されているとする史料も存在する(ただし、秀康本人は一生「結城」のままで通したともいわれる)が、秀康が越前入封後、いかなる姓を称したかは確かな史料が無くはっきりしないのが現状である)。慶長10年(1605年)権中納言に昇任。慶長12年(1607年)には伏見城番に任じられる。だが病にかかり職務を全うできなくなったため3月1日に越前へ帰国、閏4月8日死去。享年34。死因は「当代記」が梅毒と伝える。後を嫡男の忠直が継いだ。
つまり、実父の徳川家康の葵の紋と養父の豊臣秀吉の桐の紋の双方を表裏につけた。
2.二代目と六代目の墓がないのは何故か?
◇調査結果:
福井藩二代目藩主松平忠直は結城秀康の子供で三代目松平忠正の兄でもある。大阪夏の陣では活躍したにもかかわらず、その気性の荒さと乱行から徳川秀忠と仲が悪く嫌われていたので、不行跡を理由に配流された。
福井藩三代目藩主松平忠昌はその後福井藩主を継承した。また、この時に北ノ庄藩から福井藩と改称された。
松平昌親は第五代藩主として寛永17年(1640年)4月11日生まれ。幼名は福松、辰之助。初名は昌明。正保2年(1645年)、兄の松平光通から2万5000石を分与されて、吉江藩を立藩した。延宝2年(1674年)、兄で第四代藩主であった光通が自殺した。光通は自殺する直前、家督は昌親に譲るようにという遺言書を残していたが、これが問題となる。実は光通には松平直堅という庶子がいたし、昌親にも兄にあたる松平昌勝がいたのである。このため、家督争いが起こった。順序からいけば直堅が後を継ぐはずであるが、この直堅は光通時代からその存在が問題視されていたし、光通の遺言があったからである。しかし藩士50人ほどが前藩主の息子であるということで、直堅を擁立しようと画策したのである。これに対して家老の芦田図書は、亡き光通の遺書を幕府に提出して、昌親の家督相続を望んだ。幕府はこれを認め、第5代藩主には昌親が就任することとなったのである。このとき、吉江藩は廃藩となり、その所領は福井藩に併合された。しかし藩内では昌親の家督相続に不満を抱く者も少なくなかった。このため昌親は在位2年後の延宝4年(1676年)7月21日、家督を兄・昌勝の長男・松平綱昌に譲って隠居したのである。
第七代藩主・松平吉品として 昌親に家督を譲られたことで第六代藩主となった綱昌は、発狂して家臣を殺すようになった。これを幕府に咎められて、福井藩は改易・廃藩とされるところだった。しかし福井藩は結城秀康以来の名門であるということから特別の配慮を受けて、前藩主であった昌親が所領削減の上での25万石を相続することで、家督を継いで藩主に再任することが認められたのである。このとき、昌親は名を昌明、そして後に吉品と改名している。そして吉品は綱昌時代に乱れた藩政の再建を目指した。まず、2000人近い家臣のリストラを断行し、さらに家老クラスから下級武士まで家禄を減らした。また、藩札を新たに発行して法令の整備などにも努めた。藩の格式の整備にも努めた。吉品には嗣子が無かったため、はじめは毛利綱広の次男・松平昌方を養子として家督を譲ろうとしたが、家臣団の反対により昌方を離別し、兄の昌勝の六男・松平吉邦を養子として宝永7年(1710年)7月5日、家督を譲って隠居した。正徳元年(1711年)9月12日、72歳で死去した。法名は探源院殿順譽和祥龍山大居士。なお、福居と呼ばれていた名を福井と改名したのは、吉品である。
つまり二代目藩主松平忠直は四代目藩主松平光通の叔父にあたるが、幕府から嫌われて配流された二代目を奉ることが出来なかった。お家争いの後に藩主となった六代目藩主松平綱昌は発狂したとされて、蟄居させられたので、これも同じく奉ることが出来なかった。
※参考文献:Wikipedia
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吉野さんが子供の頃の遊び場だったそうです |
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高さは2m50〜3mくらい? |
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何故か二代目と六代目がいない |
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霞んでいない時は白山を望むことができる
こんな山の上まで、あの大きな墓石を運んだ |
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吉野さんの生家の前で記念写真 |
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大安禅寺の朝の散策の後は、近くのお蕎麦屋さんで朝食。待つ間にZEKEが地酒のにごり酒に食いつく。とっても口当たりが良いと大好評。樽から直接ラベルのついてない一升瓶に入れてもらったのをおみやげに購入。手打ち蕎麦に筍ご飯、ぬか漬け。どれもこれも絶品でした。朝から既に満腹。
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お蕎麦屋さんでのんびりしすぎて、予定よりも1時間遅れて小松航空プラザに到着する。 |
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正面入口を入ってすぐにピッツS-2Bが展示してある。 |
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ピッツS-2Cを搬出。どういう風に展示されるか楽しみです。
ピッツS-2Bもカラーリングをロック岩崎仕様に変更されるそうです。 |
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上写真後列左から3人目が吉永館長でロック岩崎さんの一期先輩だそうです。
今回はお話をすることが出来ませんでしたが、この展示を見ればお話を聞かなくてもいろいろとわかります。 |
上はピラタス、南極観測で使用されました
右は二宮忠八が考えた「玉虫型飛行器」の復元機 |
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T-33、T2、F-104など様々な展示品で充実しています |
お茶の水女子大チームの人力飛行機
早稲田の学生が協力して作りました
機名:ゼフィルス・ベータ |
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野田のチャック・イエーガというよりもチャッカリ・イエーガー。
説明して下さったのは吉永館長の同期の原さん、普通のおじさんに見えますが、このF-104ファイターのパイロットでした。 |
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この日の晩は岩崎光子さんの実家のある長浜まで行きました。鮎料理をご馳走になってしまいました。鮎の塩焼、天ぷら、揚げ物、酢もの、どれもこれも絶品でした。あまりにもおいしかったので、留守番組のTELLちゃんに何度もおいしいという報告をしました。さらにTELLちゃんのおみやげ用に購入しておいたにごり酒もあけました。生まれて初めて鮒寿司を食べました。日頃臭いのきつい食品に慣れている関東人には臭いは全然平気でこれもおいしくいただきました。鮒のかわりに鮎で作った鮎寿司も絶品でした。
その夜は琵琶湖畔の別荘をお借りし、再び夜中まで光子さんの弟さんの善三さんを交えて大宴会です。ZEKEが突然、鳥人間コンテストで彦根に来るときは必ず寄る奴飯店に行こうと言い出し、夜中の12時過ぎに出かけました。道を間違えてやっと見つけたと思ったら月曜定休日でお休み。本当に残念と我々が思っている頃、言い出しっぺのZEKEは爆睡。仕方なく別のラーメン屋さんに。そうしてようやく寝床につくことが出来た頃には国さんと克ちゃんのいびきの編隊飛行。しかし、忍耐強い私は何度目が醒めても負けません。
翌日の朝5時30分に目が醒めると既に光子さんが朝食の準備に来て用意をしてくれていました。
あのロック岩崎さんの人柄の原点をここ長浜で知ることが出来ました。岩崎光子さんや善三さんを初めとする中川家があってこそのロックさんだったんですね。夜中に大騒ぎをしているときにロックさんは側にいました。そして、喜んでいてくれました。
我々は今回すっかりご厚意に甘えてしまいました。 ロックさんが亡くなってしまった時に失われたものははかり知れませんが、その後も我々の心の中に様々な影響を与え続け、感動を、そして喜びをもたらしてくれました。それを失ったものと天秤ではかることは出来ません。さらに我々に曲技飛行をすることは出来ません。それでもロックさんが残してくれた精神を繋いでいくことはできます。光子さん善三さん中川家のみなさんに深く感謝します。そしてロックさんに感謝します。再び小松航空プラザに行った時、福井を訪れた時、長浜を訪れた時に胸を張っていられるようにしたいと思います。
今回の3日間の道中で吉野さん、岩崎光子さん、善三さん、中川家のみなさん、運転してくれたZEKE、平井克ちゃん、K-100、IKKIさんに感謝です。国さん、マリオさんもお疲れさまでした。ZEKEは今回光子さんをたいへん良くサポートしました。ふと振り返れば何もしていない私でしたが、きっとロックさんは今頃ラッコ隊長じゃしょうがないなと笑っていることでしょう。重ねてありがとうございました。 |
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◆5月4日
最終日は、朝、琵琶湖畔を散策し、再びおいしい朝食をご馳走になり、さらにはおみやげまでいただいてしまいました。小松航空プラザにトラックを取りに寄り、充分な休憩を取りながらのんびりと戻りました。総行程1700kmの充実した楽しい3日間でした。
TELLちゃんは今回はお仕事で留守番でした。でも、小美玉市まで見送りに来てくれました。 |
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↑この顔にピンと来たら110番へ!!! |
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